2012年1月26日
「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」という本を読んで、
マーケティングとは全然べつのことが気になったので書いておく。
私の目標は、
「おもしろいひとがおもしろいというだけで食べていける世の中を作ること」なので、
グレイトフル・デッドはひとつのモデルケースになるかな、と思って読んだ。
結論として、
グレイトフル・デッドの例は、ビジネスモデルとしてなんの問題もない。
ただ、コンテンツビジネスのモデルではない。
「ある一部の」コンテンツビジネスのモデルにすぎない。
グレイトフル・デッドは、「批評不在」のコンテンツであり、
グレイトフル・デッドのビジネスモデルで成功するのは
「批評不在」のコンテンツのみである。
そしてインターネットの時代には、
「コンテンツビジネスのモデル」という、あるひとつのモデルは成立しない。
あるひとつの大きな混沌の中で、いろんなコンテンツが、
同じ値段で同じパッケージで同じ店舗で買えた、
20世紀とは、希有な時代だったのだ、ということにいきなり気づいた。
※ちなみにマーケティングに関しては非常に勉強になった。
がしかし、この記事ではそのことに一切触れず脱線していくのみなので、
そのあたりは、この本をまわしてくれたmayumineさんの記事に
内容が詳しく解説されているのでご覧あれ。
私が自分のお金でコンテンツを買ったのは1995年からなので
「20世紀」を経験したのはわずか5年だったが、
この頃は、J-POPが隆盛し、いろんなバンドコンテストが行われ、
レコード会社に拾われてバンドはめでたく「メジャーデビュー」し、
ドラマやCMの「タイアップ曲」として大々的に売り出され、
CDの販売枚数を基準とするオリコンチャートが機能していた。
(もはや懐かしい)
まとめるとこんな感じ。
■20世紀型
A. クリエイターがなにかつくる
B. 発表する/出版社やレコード会社に送る
C. 出版社やレコード会社が発掘する
D. 出版社やレコード会社が「商品」にパッケージング
E. 出版社やレコード会社がキャンペーンを展開(献本、献盤含む)
F. 書評誌や音楽誌で批評家が批評する
G. 学校や職場などクチコミで拡散する
ゼロ年代が始まった当初、「これからのメディアはどうなるのか」という議論の中で、
Amazonレビューや個人ブログでのアマチュア批評が大きく取り沙汰されて、
書評誌や音楽誌の立場がなくなり、「GがFにとってかわる」と思われていて、
「批評体力のあるプロの批評家が絶滅する」とかそういうことが問題になっていたけど、
実際ゼロ年代中にはそういうことは起こらなかった。
実際にはGの中には大きな格差があって、
アマチュアであっても、きちんとした自分なりの批評体系をもって
本や音楽を独自の視点で批評する「書評ブロガー」や「音楽レビュアー」たちは
すぐに有名になり、今度は出版社やレコード会社が、その人たちに対して
献本、献盤するようになったのだ。
■ゼロ年代型
A. クリエイターがなにかつくる
B. 自分のブログ、ホームページで発表する
(G. ブログやTwitterなどクチコミでやや拡散する)
C. 出版社やレコード会社が発掘する
D. 出版社やレコード会社が「商品」にパッケージング
E. 出版社やレコード会社がキャンペーンを展開(献本、献盤含む)
F. 有名ブロガーが批評する
G. ブログやTwitterなどクチコミでさらに拡散する
これは、GがFを淘汰したのではなくて、「Fを行う人と場所が変わった」というだけだ。
BとGも同様。より広くフラットで自由な形に変わっただけ。
それは素晴らしいことであり、特に問題になるようなことはないと私は思っている。
(問題になるのはおもにFで食ってた商業誌のひとだけ)
iTunesや電子書籍プラットフォームは、これを覆す新しいビジネスモデルではなく、
インターネットにおいて、このビジネスモデルを
(なんとかして)維持するための仕掛けのひとつである。
特にC~Eの部分は、もはや瀕死というより既に屍累々。
C~Eを淘汰しはじめているのが、「フリー」であり「シェア」であり
「グレイトフル・デッド型」のビジネスモデルだ。
■グレイトフル・デッド型
A. クリエイターがなにかつくる
B. フリーで発表する
G. シェアで拡散する
H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる
グレイトフル・デッド型のマーケティングの場合、
ゼロ年代型で存在したC~Eが一気に淘汰される。
「商品」にパッケージングする必要がないのだ。
それは「フリー」で「シェア」されているから、どんどん拡散する。
拡散したあとで初めて「商品」が作られて、それが売れるのだ。
商品とは、コンテンツそれ自体ではなくて、
ほぼ日でいうところの、ほぼ日腹巻きとか、ほぼ日手帳とかであり、
グレイトフル・デッドでそれは「ライブでの得難い体験(アルコールとドラッグを含む)」である。
ゼロ年代の10年がすっかり明らかにしたことは、
「クリエイターに対価として支払われる金額はコンテンツの質を決定しない」ということ、
というより、より正確には、
「いままでコンテンツの対価と思って支払っていた金額は、じつはほとんどが、
パッケージやキャンペーンなど、それを"商品"として流通させるためのお金だった」
という事実だ。
わたしたちが「ほぼ日」を読むために「本」というパッケージを買うことと、
「ほぼ日」をタダで読んで、楽しかったなとおもって、「ほぼ日手帳」を買うことの間に、
それほど大きな差はない。
であるからして、C~Eの淘汰それ自体は、よいことなのだ。
困るのは、C~Eの「中間業者」の皆さん(広告代理店含む)たちと、
その枠組みの中で仕事をしてきた大御所の皆さんだ。
彼らは「良いコンテンツの発掘にはプロの目が必要(C)」と抵抗し、
「紙の本というパッケージだって大切(D)」と抵抗し、
「消費者の価値変容を起こさないものは広告とは呼ばない(E、これは広告代理店がね)」
と抵抗するだろうが、既得権益とはそういうものである。
もうひとつ気づくのは、「このモデルではついに批評(F)が存在しない」ということだ。
図を見直してもらえばわかるが、20世紀型モデルでも、ゼロ年代型モデルでも、
「批評って、なんか意味あるんだっけ?」と問われると、「特に意味はない」と答えざるを得ない。
特に「ビジネスモデル」としてこの図を見ると、批評はまったくなんの役割も果たしていない。
それではなぜ、20世紀型でも、ゼロ年代型でも場所を変えて存在した批評が、
「グレイトフル・デッド型では存在しえない」のかというと、
「グレイトフル・デッド型で成功するのは、批評が存在しないコンテンツのみだから」
ということになる。
たとえば
A. 個人がなにかつくる
B. フリーで発表する
G. シェアで拡散する
H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる
F. 「商品」が批評される
というモデルは存在しない。
この「商品」とは「ほぼ日手帳」や「ライブでの得難い体験(ビール飲んだり薬やったり)」を指すので
「ほぼ日手帳を批評体系に基づいて熱烈に批評する/酷評する」ということは起こり得ない。
そして
A. 個人がなにかつくる
B. フリーで発表する
F. 批評される
G. シェアで拡散する
H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる
というモデルもやはり、(ありそうにみえるが)存在しない。
なぜなら、
「批評が発生するようなコンテンツは、そもそもフリー&シェアの精神からはずれてしまうから」
ということなのだ。
私がインターネットにおいて、エスカレーターのサイトを始めた理由もそこにあるので、よくわかる。
私のサイトに載っているエスカレーターの写真を
「写真」や「アート」の文法で批評することには、ほとんど意味がない。
以前書いたことの流用になるが、
ピカソの絵が、美術界に与えた衝撃はすさまじいものがあったが、
「ピカソの絵が、なぜ、どのようにすごいのか?」を理解するには、基礎体力が必要である。
これに対して、私が提示するのは、
ただ「エスカレーターって、いいよね」という観方であって、
それを観た人が「そうだよね!いいよね!」と一緒になって盛り上がる。
フリー&シェアとはそういうことである。
インターネットで成功するのはピカソではなくて私である。
■考えられる未来1:このモデルが唯一のコンテンツビジネスモデルとなった場合
繰り返すが、「批評って、なんか意味あるんだっけ?」と問われると、
「特に意味はない」と答えざるを得ない。
特に「ビジネスモデル」として考えると、批評はなんの役割も果たしていない。
だが、「コンテンツを売るために批評は不要」だが
「批評のためには、批評が発生するコンテンツが絶対に必要」である。
これは批評家が職を失うという問題ではない。
既に彼らはゼロ年代型モデルにおいて、批評体力のある優れたブロガーに職を奪われている。
それは、ブログやインターネットが「批評のプラットフォーム」としては
なんの問題もなかったことを示している。
ただ、ブログやインターネットは、「批評が発生するコンテンツ」のための
ビジネスモデルを未だ生み出していない。
このことは、ついに批評に、特に同世代の批評に死をもたらす可能性はある。
■考えられる未来2:なんらかの小規模なビジネスモデルが複数発生する場合
グレイトフル・デッド型のビジネスモデルで売れないものは、たとえば3つある。
ひとつは、現代アートや、現代音楽や、純文学や、フリージャズや、
「その構造自体が批評を必要とするコンテンツ」の類。
創作があって批評があって批評が体系化されて、
そしてその体系を打ち崩す創作がうまれる。
そういうサイクルの中でうみだされてきたものたち。
もうひとつは、「完全な駄作」。
たとえば若いころに爆発的なヒットを生み出した大御所が晩年になって
レコード会社との契約の中でいたしかたなく生み出した、
もう本当にてんでダメ、という作品。
もうひとつは、「誰にもまったく売れない商品」。
ある有名アーティストの安定的な収益で潤っているレコード会社が
ほとんど道楽で出したような商品。
「売れないもの」と書いたが、
この3つは20世紀型モデルでも、べつに売れてたわけじゃない。
というか、ぜんぜん売れていなかったわけである。
だがしかし、それはどれだけ売れなくても「商品」として存在し、
だれからも愛される超ヒット作とだれが買うんだかまったくわかんない作品が
同じ値段で同じパッケージで同じ店舗で買えたのが、20世紀なのである。
グレイトフル・デッド型モデルでは、「愛されないもの」は「商品」にはならない。
だからといって、そういったコンテンツがいきなり死ぬというわけではないだろう。
たとえば有料会員制の「サロン」みたいなものが発生して
そこでとんでもなくヤバい音楽をやってるミュージシャンを支援する、
みたいなモデルはありえるかもしれない。
ただ、いままでのように、それらがいっしょくたに
「同じ値段で同じパッケージでだれでも手に取れる形で並んでいる」
20世紀の混沌は、いつのまにかすっかり過去のものになっている。
と、ここまで書いてやっと白状するが
音楽の批評体系を(曲がりなりに、一応は、なんとなくは、たぶん)学んだ私にとって、
グレイトフル・デッドの音楽にはなんの魅力も感じられなかった。
それはわかりやすく、心地よく、だれからも愛される音楽であり、
なにかの批評体系にのせて熱烈に称賛する、あるいは酷評する、という価値の一切ない音楽だった。
そのことに、なんというか、衝撃を受けて、この記事を書いている。
私の音楽的価値観を未だにほとんど支配しているテキストを紹介して、終わりにする。
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1966年、フランスのジャズマガジン「ジャズ・オット」誌の6月号はシカゴのアルトサックス奏者アンソニー・ブラクストンに対する激烈な批判記事を掲載した。
ブラクストンは当時世界中を巻き込んで展開していたフリージャズ・ブームの若きスターのひとりであり、ファンやある種のジャーナリズムは彼を「現代音楽とジャズを結ぶブラック・エロース」であるとか(彼は黒人である)「幾何学的ブルース衝動」であるとか「緻密な建築設計図を自動書記で書き上げる男」(彼はリタイア後の現在、フィラデルフィア大学で数学と建築学の教鞭をとっている)等といって絶賛していたのにも関わらず、反フリージャズの方針をとっていた「ジャズ・オット」誌は保守派最強の理論家ジャン・ミシェル・リブローを起用、罵倒といっていいその記事の酷評の音量は誌面のセンターフォールドをも飾るが如き勢いであり、最終行に近ずくにつれて罵倒は呪いにさえ近ずいて行った。66年6月号は悪魔に魅入られた様であった。
「フリージャズ」「現代音楽」「保守派」「理論家」「酷評」こういった輝かしい固有名詞群が時代の遺物として絶滅してしまった事を嘆く快感に酔いしれるまでもなく、リブローの記事の正当性といったものは当時も現在も厳密に理論的な意味に於いて証明されようもない。しかし、リブローは図らずも、今、仮に彼を悪役として物語を認識しようとしている勢力にとってはいわゆる「奇妙なハッピーエンド(アンハッピーエンド)」に成る様な、訪れた瞬間に感情と記憶が夢に変換されてしまう様な魅惑的な転調感を我々に残してしまっている。彼が筆を置く寸前に発した金切り声の一言。当時は罵倒として見事に機能したであろうその一言はナボコフの小説に登場するニンフェットのそれの様に現在の私を魅了して止まない。
「あんなものは所詮ナイトクラブのクセナキスだ」
ナイトクラブのクセナキス。もしその名の通りの音楽がどこかに存在したとしたら、そのサウンドはどんなにクールであろうか?罵倒からこうした宝石が生み出される可能性が報告されている限り、貴方は人と争う事をやめてはいけないだろう。本日の演奏はこの記事が掲載されてからちょうど30周年であることを記念して行われるものである。
菊地成孔 「ミスタードーナツのシュトックハウゼン」より抜粋
(『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』収録)
全文を読みたい方はこちらを
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※追記※
補足1:「批評の定義」に関する補足
いいね! や 「これはひどい」タグをつけることは、批評ではない、ということの説明
http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/02000000.html
補足2:「批評の不在」に関する補足
"批評不在のコンテンツ"とはいったいどういうものか? ということの説明
http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/03000000.html
※追記※
補足1:「批評の定義」に関する補足
いいね! や 「これはひどい」タグをつけることは、批評ではない、ということの説明
http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/02000000.html
補足2:「批評の不在」に関する補足
"批評不在のコンテンツ"とはいったいどういうものか? ということの説明
http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/03000000.html