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    <title>東京エスカレーターガール</title>
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    <updated>2012-02-22T06:19:53Z</updated>
    
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    <title>Tumblrは「俺抜きのコンテンツ」が評価されるハイパークリエーションプラットフォームなのか</title>
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    <published>2012-02-17T13:00:00Z</published>
    <updated>2012-02-22T06:19:53Z</updated>

    <summary>TumblrのCEO来日講演のエッセンシャル版を読んだのだけど、めちゃくちゃシン...</summary>
    <author>
        <name>38</name>
        
    </author>
    
    <category term="考え中" label="考え中" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<p><a href="http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1202/15/news108.html">TumblrのCEO来日講演のエッセンシャル版</a>を読んだのだけど、めちゃくちゃシンプルながらわりと今まで語られてない（気がする）ことがたくさん書いてあって、ちょっと「うほー！」とおもった。</p>

<blockquote>
  <p>我々はクリエイターにとっていいツールを作っていく。</p>
  
  <p>何にフォーカスするかということ、クリエイティビティだ。</p>
  
  <p>表現をするプラットフォームは現在、YouTube、Instagram、Tumblrしかない。</p>
</blockquote>

<p>表現をするプラットフォームは現在、YouTube、Instagram、Tumblrしかない。</p>

<p>表現をするプラットフォームは現在、YouTube、Instagram、Tumblrしかない。（かみしめている）</p>

<p>ここで彼が考えている「表現をするプラットフォーム」は、</p>

<blockquote>
  <p>「クリエイター、キュレーター、オーディエンスの3層構造」</p>
</blockquote>

<p>かつ、</p>

<blockquote>
  <p>「モバイルファースト」</p>
</blockquote>

<p>であること。</p>

<p>そして、いちばんはっとしたのはこのひとこと。</p>

<blockquote>
  <p>「コミュニケーションではなくクリエーション」</p>
</blockquote>

<p>これ、ちょっと目からウロコっていうか、175度くらい考えの方向が転換した。</p>

<hr />
]]>
        <![CDATA[<h3>「オープン」「クローズド」の区別はあんまり関係ない</h3>

<p>「オープン」「クローズド」を区別し、"クローズド"から"オープン"へのステップアップをうながすのは、<a href="http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109">はてなの近藤社長</a>。</p>

<p>そういうふうに区別すると、Tumblrは70%が「Tumblrユーザー」自身である、わりとクローズドなコミュニティなのだという（そういう意味でははてなも超クローズドなんだけど！）。</p>

<p>わたし、いままで、クローズド、うんうん、つまり、クローズドな世界の中でのコミュニケーションを楽しむということね......と思考が流れていきがちだったのだが、ちがってた。</p>

<p>オープンであるかクローズドであるかは、単に規模の問題で、コミュニケーションしたいひとは、「超大規模にコミュニケーションしたいか」「クローズドにコミュニケーションしたいか」、クリエーションは、「超大規模にクリエーションしたいか」「クローズドコミュニティの中でクリエーションしたいか」、どっちもありうるのだ。</p>

<p>そしてTumblrは、（途中から）「クリエーション」目的にはっきりフォーカスした。</p>

<p>これ、「クリエーション」に「コミュニケーション」（コメントとトラックバック）を内包させることで画期的に始まったブログと逆だ。</p>

<p>（...ていうことは、近藤社長が上の記事で、最初にそのこともはっきり書いてた！読みなおして超びびった！）</p>

<h3>「クリエーション」「コミュニケーション」をあえてもう一度分離する</h3>

<p>「クリエーション」と「コミュニケーション」をもう一度分離することは、特にコミュニケーションツールの主役がブログでなくなった今、ものすごく意味がある。</p>

<p>「コミュニケーション」にフォーカスしたサービスでは、そのひとがあげたテキストや写真は「俺」ありきで、「俺」抜きで語られることはない。俺は俺を知ってほしくてテキストを書く。読む人は俺を知りたくてテキストを読む。</p>

<p>※ちなみに匿名実名は関係ない。匿名で書く理由が、自分のリアルの人格「俺」ではなく、テキストや写真から推測される「オレ」を知ってほしいからであるひとはいる（だったよな、かつての匿名の私！）</p>

<p>「クリエーション」の場合は、「俺」抜きでコンテンツがある。俺は俺を知ってほしいわけじゃない、俺のコンテンツを知ってほしい。読むほうの人も、「俺の意図」や「俺の人格」を意識せずに、コンテンツをみる。（ロラン・バルト「作者の死」にたぶんそういうことが書いてある！！！読んだことないけど！！！）</p>

<p>この違いはかなり大きい。とてつもなく大きい。</p>

<h3>クリエイター、キュレーター、オーディエンスの3層構造を明示化し、双方向性を遮断する。</h3>

<p>ブログの場合、クリエイターもキュレーターもオーディエンスも、全部双方向だ。双方向（コメント・トラックバック）にできるようにしたのがブログであり、双方向がのぞましいと思われてる。（思ってた、特に私！）</p>

<p>しかしTumblrでは、キュレーターは「拡散する」ことにとにかく専念。リブログと「スキ！」はあるが、コメントをするのは"自分の土俵"。ある作品をけちょんけちょんにけなそうが、べた褒めしようが、改変しようが、クリエーターからの見え方は同じ「リブログ」。つまり「拡散」にしかみえない（のよね？）。</p>

<p>そして「リブログ」されつづけると、「誰が書いたのか、撮ったのか」ということは意識されないまま、本当の意味で「俺抜き」でコンテンツが評価され続ける（のよね？）。</p>

<p>これってちょっとすごい。</p>

<hr />

<p>でも、私はTumblrはつかわない。なぜかというと理由はふたつ。</p>

<h3>理由1:Tumblr内で書かないと（Tumblr内で書いても？）クリエーターのメリットが見えにくい</h3>

<p>日本のTumblrはどう使われているかというと、もっぱら「キュレーション目的」。そこには本当の意味で「俺抜き」なコンテンツが飛び交っている。誰が撮った写真なのか、もはやわかんない。</p>

<p>俺のコンテンツ、俺抜きで超評価されてる！！！</p>

<p>でも、クリエーター側に返ってくるメリットはほぼゼロ！！！</p>

<h3>理由2:キュレーションは数の評価でしかない</h3>

<p>私はFacebookのいいね！のような、「数で評価」の仕組みを「クリエーション（表現）に対する批評」とは考えてない、ということを<a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/02000000.html">前書いた</a>んだが、Tumblrのリブログ、スキ！の仕組みも、まさしく数の評価であって、ここにもやっぱり批評が存在しない。</p>

<p>しつこいようだが、批評が存在しないコンテンツがフリー&amp;シェアで拡散する仕組みは、コンテンツビジネスのひとつのモデルにはなるかもしれないが、（特に私の好きなタイプの）クリエーターの飯のタネにならない。</p>

<hr />

<p>では、Tumblr以外で考えるとどうなるか。</p>

<p>CEO（なんて名前だっけか）は、ここでYouTubeとInstagramをあげていたが、<strong>その理由がまったく謎</strong>（Instagramってもろにコミュニケーションツールにみえるし、YouTubeの仕組みってそんなに新しくない）なので、ブログ、Twitter、Facebookの話にする。</p>

<h3>課題1:Twitter, Facebookはコミュニケーションツールってことでいいのか</h3>

<p>Twitter, Facebookはコミュニケーションツールなんだけど、同時に"ブログ記事拡散装置"としても重宝されていて、ここでも、コミュニケーションとキュレーションが混在する状況が起きてる。そうすると、「お友達いいね！」とか「信者いいね！」とか「お友達RT」とか（あるいは逆に人格否定するネガコメとか）と、キュレーションとを区別できない。</p>

<h3>課題2:ブログはクリエーションツールってことでいいのか</h3>

<p>ブログのコメント、トラックバックはもうあんまり使われなくなってきてて、たしかに近藤社長の言うように、クリエーションとコミュニケーションを分離する方向に動くのかもしれない。しかし、ブログを「クリエーション」（俺抜きコンテンツ発表の場）で使ってるひとってほんとうは、「かぎりなくゼロ」じゃないか、というのが私の考え。「コミュニケーション」を分離して、何が残るのか？ブログに？（小声で）批評？（俺だけの視点で世界を読み解くこと）</p>

<p>もうひとつ、ブログって俺が俺のために書くところから始まるんだけど、それがコミュニケーションによってだんだん進化するという過程が確実にあるので、本当にコミュニケーションと分離していいんだっけ、というのもある。かもしれない。</p>

<hr />

<p>しかし個人的に、コミュニケーションツールとしてブログを書くことにやや飽きていたところだったので（リアルでひとに会ったほうが100倍楽しいし、東京はそれができるし、補助ツールとしてのFacebookがある）、なんか、</p>

<p><strong>ワクワクしてきた。</strong></p>
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    <title>知性のフルマラソン</title>
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    <published>2012-02-14T16:37:52Z</published>
    <updated>2012-02-14T16:44:02Z</updated>

    <summary>義務教育は短距離を走るための、高等教育は長距離を走るための体力作りだとおもってい...</summary>
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        <name>38</name>
        
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    <category term="おもしろ至上主義" label="おもしろ至上主義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[義務教育は短距離を走るための、高等教育は長距離を走るための体力作りだとおもっている。（おもっているんだったか誰かが言ってたんだか忘れた）<div><br /><div>だから、「俺は50mを6秒で走れるから、体力作りなんて無駄」とか、「電車も飛行機もある時代に42kmを走って移動するなんてナンセンス」とか、そういうことを言う大人はあまり信用してない。ただ、私も体育の時間が嫌いだったタイプなので、「走るの速いのがそんなに偉いのか！」と言いたい気持ちはわかる。ひとには、向き不向きってもんがある。</div><div><br /></div><div>しかし、そういうことを平気で言っちゃう「大卒」の大人をみると真剣にびっくりする。このひとは、マラソンの途中でズルしてショートカットして「マラソン参加賞」だけ手に入れてここまできたんだろうな、残念だなぁ、ておもう。</div><div><br /></div><div>私は文系なので、よくわからないままやみくもに卒論を書いたけど、それがどのくらいの距離のマラソンだったのか、ちゃんと正しいゴールにたどり着いたのかは不明だが、「走ってたときに考えたいろんなこと」と、「とにかく走り終わったということ」は、私の身体が記憶している。「もっといいタイムで、もっと遠いゴールに、たどり着けたはずだ」という、悔しさも。</div><div><br /></div><div>大学の教授なんて、マラソンに取り憑かれて電車にもバスにも乗らずに走り続けている変態なので、コーチとして優れたひとに出会えるかどうかというとあやしいが、でも、オリンピック級のランナーがひょこっとあらわれて、「フォームがなってないね」とつぶやいて去ってく、みたいなひょええええっていうような体験はけっこうできる（思想文化学科が特殊なだけかもしれません）。</div><div><br /></div>たしかにいまは、「弊社は駅員さんにきいて電車の切符をすばやく買える即戦力を求めてます」ってどこの会社でも言う。だけど間違えちゃいけないのは、大学を卒業することは「電車や飛行機を作る技術力を身につける」ことじゃない。ましてや「マラソン参加賞」を得ることでは絶対ない。「マラソンを（どんな距離であれ、タイムであれ）とにかく走り切る」ことだ。それは見た目「マラソン参加賞」と変わりなく、しかも駅員さんと仲いいのはショートカットしたほうの奴らかもしれないけど、</div><div><br /></div><div><strong><big><big>だからといって、走ることそれ自体を否定するのはあまりに馬鹿げています。</big></big></strong></div> ]]>
        
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    <title>『3月のライオン』優しさの構造</title>
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    <published>2012-02-13T15:52:43Z</published>
    <updated>2012-02-13T16:14:19Z</updated>

    <summary> 少年漫画、少女漫画の典型パターンのひとつに、「与えられた敵に立ち向かいそれに打...</summary>
    <author>
        <name>38</name>
        
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    <category term="おもしろ至上主義" label="おもしろ至上主義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005IW5U6O/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/61Dgx3X9ivL._SL500_.jpg' Width='500' Height='443' alt='3月のライオン コミック 1-6巻 セット (ジェッツコミックス)' title='3月のライオン コミック 1-6巻 セット (ジェッツコミックス)' /></a></p>

<p>少年漫画、少女漫画の典型パターンのひとつに、「与えられた敵に立ち向かいそれに打ち勝つことで、社会的に承認される人間に成長する」というものがある。</p>

<p>しかし、少年漫画のおもしろいのは、新たなる敵があらわれてこの戦いがずっとエンドレスに続くことで、男の子は社会の一員となったことによる責任や役割を負うことなく、永遠の少年としてずっと夢からさめずに戦っていることができる。それは単に少年ジャンプの都合かもしれないけど、現実でも、日本的な年功序列型システムの中で永遠に楽しく戦ってる男の子たち、というふうにみたりもできる（かも）。</p>

<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4088791975/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51gQ3Cn5yHL._SL500_.jpg' Width='104' alt='キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA 5 (ヤングジャンプコミックス)' title='キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA 5 (ヤングジャンプコミックス)' /></a></p>

<p>恋愛を軸とする少女漫画においては、敵はたとえば転校してやってきたスペックのよい男の子で、最初お互いに反目してるのだが、最終的に女の子の善なる力で屈服させる。でも、そのあと、女の子には新しい敵を見つけて再びバトル！という選択肢がない。現実でも、女の子は社会的に要請される役割として、子を産み母になるので、否応にも永遠に楽しく戦い続けることはできない。どうなるかというと、「二人の間にちょっとしたすれ違い」を発生させて、もう勝ちとったはずのものを手放して何度もとりにいかせる、みたいなことになってゆく。うげげ。</p>

<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4063654753/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51RAIWx8b5L._SL160_.jpg' Width='104' Height='160' alt='桃色ヘヴン！（1） (デザートコミックス)' title='桃色ヘヴン！（1） (デザートコミックス)' /></a></p>

<p>このアンフェアネスへの回答が、最初に与えられたそこそこスペックのよい敵（タカハシ）を無視して数々の敵（男たち）に挑み、最終的に、スペックも攻略難度もあげてきた敵（記憶喪失タカハシ）をラスボスとしてクリアするが、やっぱり納得いってない、という、安野モヨコの『ハッピー・マニア』である。</p>

<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396380011/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/61ZB6NC5SEL._SL160_.jpg' Width='109' Height='160' alt='ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)' title='ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)' /></a></p>

<p>もうひとつは、最近流行りのボーイズラブのひとつの類型にみられる。ここでは、女の子（見た目は男）は自分に要請される役割を理解して既にこなしている。仕事もあるし家庭を持ってる場合もある。ところが、いきなり現れた社会規範にとらわれない純粋なものに、征服され、屈服する。BLじゃないけど『のだめカンタービレ』もこれかも。あの作品（特に映画版）ではのだめよりも千秋先輩の視点で話がすすむ。これは純粋なものに、社会的になんのソツもない私が不条理に征服される（征服されたいという欲望の）物語である。（この部分、というか全部だけど、再考の余地あり。。。）</p>

<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4091325149/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51N-gJTnOoL._SL160_.jpg' Width='104' Height='160' alt='窮鼠はチーズの夢を見る (フラワーコミックスアルファ)' title='窮鼠はチーズの夢を見る (フラワーコミックスアルファ)' /></a></p>

<p>この「永遠にたたかいつづける男の子」問題と、「もうたたかうことが許されない女の子」問題、「うまくやってたはずなのに引きずりおろされる」問題は、全部、「社会の一員となってみたけれど、そこになにもなかった」という、現代社会の空虚さに起因してるようにみえる。「母性の欠落」ともいえる（いや言ってみただけだ）。</p>

<p>というわけで、『3月のライオン』である。</p>

<p>※このあといろいろネタバレというか読んだ人にしかわからない話つづきます。</p>
]]>
        <![CDATA[<p>これは一見、「与えられた敵とたたかいたくない男の子」の物語である。「与えられた敵とたたかいたくない男の子」は、私の少ない漫画知識だと、いままでにたとえば、エヴァのシンジ君や、ピンポンのスマイルがいる。そして、のだめ。彼らは皆、「自分の才能が誰かを傷つけるのなら、そこまでして勝ちたくありません」と表明して与えられた敵から逃げるのだが、もっとなんの迷いもなく戦いつづける天才のために自分も戦い、「たたかわないことで保っていた全能感」を手放し、平凡でしかし安定した大人としての自我を手に入れる（シンジ君とのだめの場合は微妙だが）。社会の一員となって生きることは拒否しても、自分にとって大切なひとのためには生きられるという、ひとつの回答ですな。自分が母になろうとするっつーか（なので言ってみただけっす）。</p>

<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4091847366/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/318CWF8QFKL._SL160_.jpg' Width='98' Height='140' alt='ピンポン (1) (Big spirits comics special)' title='ピンポン (1) (Big spirits comics special)' /></a></p>

<p>で、『3月のライオン』の零である。</p>

<p>零は、「たたかいたくない理由」をたくさん持った男の子である。家では、（よくアスカと対比される）義姉の香子が、（「あんたバカァ？」と言ってくれる強いアスカではなく）既に零の才能のせいでズタズタになってるし、学校では才能のせいでクラスから浮いてしまっている。しかし、そうして家にも学校にもいられなくなったために、かえって「たたかうしかない」状況に追い込まれる。その「ゼロ」からのスタート。</p>

<p>物語を推進するのは、は、数々の天才、ライバルたちが登場し、たたかって成長する、少年漫画の王道である。</p>

<p>しかし、零が「逃げちゃダメだ」とおもってるのは、「将棋を指すことから」ではない。「学校に行くことから」である。学校に行き、将棋だけが自分の逃げ場所ではないということを担保しようとする。「そうじゃないと勝てない」という。</p>

<p>え、なんで？？？</p>

<p>これは「たたかいたくない男の子」ではなく、「たたかってさっさと大人になっちゃった男の子」の物語なんじゃないか。なんたって中学生プロ棋士だし、物語の最初に描かれる対局で既に「父（養父であり師）」を打ち負かしているし、自立してひとりで生活してるのだ。そしてその生活が、「ものすごく空虚」なのである。母性が欠落している。で、「このままでは勝てない」というスランプに立つ。</p>

<p>ここで提示されるこたえが、「もう一度、子どもをやり直せ」なのである。学校で先生に頼れ。研究会でもう一度、師を持て。橋を渡った向こう側の川本家でフクフクになれ。</p>

<p>登場するプロ棋士はみんな子どもだ。子どもだから強い。頂点に君臨しつづける「神の子」は見た目すらずっと変わらないままだし、家のことを顧みずに将棋のためだけにうちこんだり、故郷にもどれば未だに「村のみんなの期待の息子」だったり、自分がどんな状態になっても庇護してくれるひとがずっと側にいてくれたりする。「永遠のゲームを続けるためにお前も子どもに戻れ！」とこういうわけだ。</p>

<p>この漫画には、「さっさと大人になっちゃった三姉妹」も登場する。「人情あふれる下町」という現代ではほとんど幻想なんじゃないか（町の人との関係性はあんまり描かれないし）という三月町で暮らす川本家である。川本家にあふれるのは仮の母性である。彼女たちは「小さなものの母になる」ことで自分の自我を保ってる。</p>

<p>この「橋を渡って反対側の三月町」は、零の願望をうつしだす鏡というか、幻想のパラレルワールドだ。零のいる空虚な世界の相似形のような、母性にあふれたあたたかい世界。で、そこから何度も「こっちへこい」といわれて、なぜ零は行けないのか。そこが「ひとんち」だから。「ひとんちの子どもになる」ことで、決定的な何か（香子であり、なにがなんでも勝ちたいという気持ちであり、本当の子どもの心）をズタズタにしてしまった零は、自分の幻想の中ですらそっちに行けない。そっちに行っても「本当の子ども」にはなれない。</p>

<p>で、どうするかというと、幻想だったはずの三月町のなかで、まずひなたが現実と向き合い始める。共同体の「理不尽さ」に気づいて、「協調性がない」子どもになる。長女あかりが「なんでそんなことしたの？」と困惑したと告白するが、彼女らにとって共同体にはむかうことは死活問題というかタブーだ。しかしひなたは、「そうしないと前に進めない」と、零の現実の姿、学校でひとりぼっちの零と重なり始める。零は、「ありがとう」という。</p>

<p>それは全部、「将棋で勝つため」に零が選んだ手段だ。自分が一度ズタズタにしてしまった、香子（本当の子どもの心）と、現実で向き合い、取り戻すこと。</p>

<p>※ここまでが私なりの構造分析で（ちなみに既に書かれた文芸批評や漫画批評の類をほとんど参照してないのでめちゃくちゃです）、あとはただの感想です。</p>

<p>青年誌で「たたかう物語」を描く場合、『ピンポン』のスマイルがペコというヒーローを必要としたみたいに、「たたかう理由」は必要だ。でも「こうまでしないと将棋でたたかう理由が見当たらない」ということに、私はなんだか違和感をおぼえる。『3月のライオン』には、将棋の世界という魅力的な大テーマがある。実際の対局や実在棋士をもとにした、幻想よりはるかに刺激的な現実がある。その世界に立っていて、なぜ空虚でいられるの？なぜ幻想のパラレルワールドが必要なの？</p>

<p>もうひとつの違和感は、これが治癒の物語ではけしてないということ。治癒は「自分では言葉にできない症例を第三者が言語化する」ことで成り立つのだとおもうけど、既に大人である零は、自分で思いきり流暢に心情を語る。英語塾でも選ぶみたいに「自分の実存の空虚さ」にクールに対峙しようとしてる。</p>

<p>現実にあてはめると、働くことが惰性になって疲れて、しかし働くこと自体に向き合うのではなく、必死で「やりがい」を見つけてもう一度自分探しに旅立ってしまったり、もう一度大学院入り直してしまったりするような、そういう「ちっぽけさ」をなんとなく感じる（個人の感想ですよ）。</p>

<p>「肉親を失う」ような悲しい出来事は、この物語にとって必要ではないような気もするし、零がまだ言葉にできてないような、もっと巨大で悲惨な出来事があるべきでは、というような気もする。零が香子に本当はどんな醜い感情を抱いていて、それがどんなふうに形にあらわれるのか、という点は見届けたい。</p>

<p>（あとこんなてきとうな構造分析じゃなくちゃんとした精神分析批評がやりたい......特に「川」がでてくる物語だけに！！）</p>
]]>
    </content>
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    <title>ブログを書くことは創作ではない。学習です。（とためしに考えてみたい）</title>
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    <published>2012-02-10T11:00:00Z</published>
    <updated>2012-02-10T12:24:42Z</updated>

    <summary>衝撃的な&quot;イケダハヤト様のお告げブログ&quot;に出会い、夜も眠れず考え続けているうちに...</summary>
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    <category term="考え中" label="考え中" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<p>衝撃的な"イケダハヤト様のお告げブログ"に出会い、夜も眠れず考え続けているうちに1週間経ってしまった。</p>

<p>（ほぼ）同じ世代として、下から目線で言わせていただくと、イケダハヤト様が常に一貫して「創作者」としてのイメージで自分を語るのが本当にすごい。（彼の文章のなかで一貫してぶれずに矛盾もないのがその1点だけ）</p>

<hr />

<p>※イケダハヤト様について詳しくはこちらをどうぞ</p>

<p><a href="http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/02/post-6473.html">「ノリタカヒロ×イケダハヤト」から佐々木俊尚無双にいたるウェブ論争獣道: やまもといちろうBLOG（ブログ）</a></p>

<hr />

<p>彼のすごいのは、意識的にか無意識的にか知らないが、お寺の前に貼ってある"いい言葉"のごときブログ更新頻度も、ブログに「記事一覧」ページがないことも、常に論旨がぶれて矛盾の多い独特の論調すらも、"お告げ効果"をどんどん高めることに寄与していて、2時間10万円の講演で生計を立てているとか、ブログ記事上げるごとに「いいね！」が2桁とか3桁とかつくとか、「イケダさんの文章、美しい」ていうコメントがつくとか、味わい深すぎてこれは大変だ！事件の香り！ていう感じなんだけど、彼のやっていることに独自の切り口というものがないだけに、「こっちでこういうおもしろいことやってる」「あっちでもやってる」「これは<a href="http://www.ikedahayato.com/?p=5879">キャズムを超える</a>かも！」というたくさんのお告げを"創作"し続けるかぎり、もしかすると将来的に本当にそのうちのいくつかが当たって「ほらね！信じたあなたは救われた！」みたいな感じで誰も傷つかず全員ハッピーみたいな状況が発生するのかもしれない。</p>

<p>彼のお告げに「その根拠は？？？」とか「ここは矛盾じゃないか？？？」と真正面から突っ込んでいって「これは『創作者』によるお告げなので根拠なんてしりません」と（しかも直接じゃなく間接的に）返されて、混乱しつつ帰ってきた猛者がたくさんいらっしゃって、皆さん一様に「非難と批判とはちがう」「他人の意見も少しは受け入れないと...」ということをおっしゃっているのだが、それに対してもイケダハヤト様は、</p>

<p><a href="http://www.ikedahayato.com/?p=5796">「自分を『創作者』という立場に置いているかぎり、誰からの非難にも批判にも意見にも屈さずに、お告げビジネスを続けていけます」</a></p>

<p>という至極まっとうなことを主張していて、しかも支持者ぜんぜん減らないわけなので、お告げビジネス、マジすごいとおもいます。時代が求めてるのかしらね、お告げ。</p>

<p>注：ここまで事実をかなり歪曲してお届けしております。</p>

<hr />

<p>なにが書きたいかというと、最近ちょっと自分のブログに書く内容を意識して変えたので、そのことについてだ。とんだ前置きだが、イケダハヤト様の件はまだまだつづきますよ。</p>
]]>
        <![CDATA[<p>なにかというと、イケダハヤト様がある記事で引用した、内田樹先生の呪い論の解釈がすごいとばしてたということなのだ。</p>

<p><a href="http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694">内田樹「呪いの時代に」　ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか　 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]</a></p>

<p>私が解釈するかぎり、これは「ステマ」とか「自演乙」とか「老害」とか「韓国」とかいう言葉で一方的な憎悪を並べたてるひとが増えている、この「記号化の過剰」は現代の「呪い」であり、それはきちんと制御しないと相手のことも自分自身の心身も致命的なまでに傷つけてしまうよ、ということ。</p>

<p>さらに、この「呪い」に手を出すのは、「高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差」に苦しんでいる若者に多いと、ハッキリ書かれている。</p>

<p>若者、イタタタタ、ですよ。特に私なんかは超イタタタで...というのも私は「リア充」という記号でもって、憎悪をまきちらす傾向がよくあるのででしてね...どの記事とはいわないが！</p>

<p>常人の私だとこういうレベルなのだが、この記事を読んだイケダハヤト様は、もはや天才。この記事にちょっとだけ出てくる村上春樹の立場に自らを重ねてしまうのだ。そうきたか！？私の確認したかぎりでは、彼は「村上春樹的な若くて優れた作家をたまたま知って、"これから村上春樹っていう作家が大ブレイクする！（根拠はない）"とお告げをしている予報屋さん、だと思うんだが、彼の自己評価では「記事を書くブロガー＝創作者＝村上春樹レベル」なのだ。ぶれないなぁ。この点だけは「高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差」なんていうどんぴしゃりな言葉を読んでもスルーできるくらい、本当に絶対にぶれないのだ彼は。（読んでないという可能性もあるけど）</p>

<p><a href="http://www.ikedahayato.com/?p=5847">創作者と「逃げる」こと | ikedahayato.blog</a></p>

<hr />

<p>それで、ここからやっと本題である。</p>

<p>イケダハヤト様が自らを「創作者」の立場におきたがるように、私は自分の立場を「良い生徒」におきたがっている。</p>

<p>すごく尊敬できて、とてもじゃないけど経験も知識も及びもつかない人を、だれだって何人か思い浮かべることができるとおもうけど、私はそのひとたちに並びたいと思うより、そのひとたちの「良い生徒」になりたいとおもうのだ。おおおどさくさにまぎれていまさらっとすごいこと告白してしまった。それはなんでかってことを深く分析するとぜったいにとてもおそろしいことになると思うので、ここはさらっとふわっと仮にそれを「女子力」って呼ぶことにしよう。女子ってほら、好きな人ができると、その人の趣味に全てを合わせようとしますからね！ね！！</p>

<p>良い生徒たる私は、これからブログを書くとき、「先生にレポートを提出！」くらいの気持ちで書いていきたい。上から目線でまったくかまわない。痛いところをきちんと指摘されたい。イタタタタ！たしかに！て思いたい。そうやって前に進みたい。今年になってからあげたいくつかの記事では、オンラインでもオフラインでも、痛いところついてくれたり、新しい視点をくれたり、「なにを言ってるのやらさっぱりわかりません」と言ってくれるひとがたくさんいたので、ひとりで悶々と考えてるよりよっぽどよかった。</p>

<p>そういうふうに、たった今、ふと思いついたたので、これからこのブログでは、「ちょっと自分でもいろいろ甘いと思うけど、ちゃんと怒られたい」記事ばかり、書くと思います（だいじょうぶかなー。大炎上とかするのかな？？）。</p>

<p>尚、これまでどおりのおもしろおかしいエスカレーターの記事などは、デイリーポータルZ様でお金をもらって書いていきます（書かせてもらえるかぎり...）。それは、エスカレーターの記事を個人ブログで書いて「いいね！」て言ってもらえるのは、なんというか、もうわかったから。そして、「いいね！」て言ってくれたたくさんのひとたちとは、もう、ちゃんと出会えたから。「お金をもらって責任もって書く」ことで、さらなるおもしろの高みを目指したいのです。</p>
]]>
    </content>
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    <title>立ち上がれ文学部！おもしろ至上主義のススメ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/04134510.html" />
    <id>tag:www.tokyo-esca.com,2012:/blog//2.603</id>

    <published>2012-02-04T04:45:10Z</published>
    <updated>2012-02-13T15:55:34Z</updated>

    <summary> 大山総裁に「美学入門講座やってくれ」といわれ、「え、それ私もだれかにやってほし...</summary>
    <author>
        <name>38</name>
        
    </author>
    
    <category term="おもしろ至上主義" label="おもしろ至上主義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<p><a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130802003/tamura38-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/41eh1-3VzEL._SL500_.jpg' Width='349' Height='500' alt='美学辞典' title='美学辞典' /></a></p>

<p>大山総裁に「美学入門講座やってくれ」といわれ、「え、それ私もだれかにやってほしい！」とおこたえしたのだが、私は、大学で「美学藝術学」という、一般にはあんまり耳慣れない学問を専攻してた。 美大だったわけでもないし、美術史ともちがう（というのを美学の学生はみんな150回くらい説明したことがあるとおもう）。</p>

<p>美学は美についての哲学。</p>

<p>「というかその&#8221;美&#8221;ってなによ？」</p>

<p>ということを延々と語りあうみたいな、わたしのような悲しくなるほど根がミーハーな人間からいわせれば、哲学の中でもかなりの極北に位置するスノッブな学問である。某教授の部屋に集まってアリストテレスを輪読してたときのあの「世の中の99%くらいのひと眼中にナシ」的空気感よ&#8230;。</p>

<p>社会学や経済学にとって数字がすべてなように、哲学にとっては言葉と言葉の定義がすべてなので、定義を知らない奴はひとことも喋れないみたいなマジおそろしいところなんすよ&#8230;</p>

<p>で、わたしはその言葉の定義のほとんどを知らないかうろ覚えしているかあるいは間違って使っているかのどれかなんで、美学についてなんてとてもとても語れません。ああこわい&#8230;&#8230;</p>

<p>ただ、私の現在の価値観とか思考法とかは、かなりの部分、この極北スノッブな研究室にいた時代に培われていることは事実。
それをひとことでいうと、</p>

<p>「おもしろ至上主義」</p>

<p>なのだ。</p>

<p>私は、小説を読むときも、音楽を聴くときも、映画をみるときも、テレビのニュースをみるときも、ツイッターにいるときも、母と会話するときも、</p>

<p>「それが自分にとっておもしろいかどうか」</p>

<p>をまずいちばん大切な価値基準にしてる。</p>

<p>ということを考えてるときに、ちょうど、「おもしろければなんでもいいのか！」と、猛烈に怒っている方がいらっしゃったので、この件について考えてみたい。</p>
]]>
        <![CDATA[<h1>「おもしろければなんでもいいのか！」議論</h1>

<blockquote>
  <p>Facebookはバカばかり
  <a href="http://d.hatena.ne.jp/hagex/20120202/p5">http://d.hatena.ne.jp/hagex/20120202/p5</a></p>
</blockquote>

<p>Facebookで、ある有名な人種差別問題に関するブラックジョークを元ネタにした話が、「実話」として載せられ、「人種差別に反対の人はシェアしよう」と最後に書かれていて、ものすごい数のいいね！やシェアを生んだ、という話。</p>

<p>この件に関して、</p>

<p>「嘘がソースの話は信用するな」</p>

<p>「安易に拡散するな」</p>

<p>と警鐘を鳴らすのが上記の（やや扇情的な）記事。</p>

<p>ちなみにわたしも、<a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/03235600.html">メディアリテラシー</a>の欠如した読み手に見当違いのコメントを寄せられて困惑した経験は大いにあり、あまりにも基本的なことを確認しないままに情報拡散する人がインターネットの世界にも増えているよね、という視点については完全に同意している（調べたわけじゃないけど）。</p>

<p>さてしかし、今回の核心はそこにはない。</p>

<p>大半のデマ拡散話だと、「その話はデマですよ」「あ、そうだったの！？ごめんなさい！」で終わるのだが、今回の場合は、元ネタがただのデマではなくて、「よくできたブラックジョーク」であったために、「その話はデマですよ」「あ、そうなのですか？　でも嘘でもおもしろいから私は広めます！」となって、まさにその「おもしろければなんでもいいのか！」という点に、上の記事の方は激しく怒っている。つまり、「おもしろければ、なんでもいい」という考え方こそが、デマ拡散の元凶だ、とおっしゃっている。</p>

<h1>では、正しければ、なんでもいいの？</h1>

<p>今回の話の場合、けっこうきわどいのは、「それ、本当にデマなの？」というのが曖昧な点だ。元ネタは有名なブラックジョークですが、じゃあその元ネタは、実話だったのか、そうではなかったのか？</p>

<p>そして、実際に起こったことであれば、広めてよかったのか？</p>

<p>ソースが嘘の話を拡散するのはヤメロ、ということであれば、実際に起こったという確証が得られれば（たとえばそれのソースが新聞記事だったら）、広めていい、ということになる。</p>

<p>うん、そうだよ？ということなのかもしれないけど、私はその、「正しければなんでもいい」という考え方のほうこそ、むしろ、デマ拡散の元凶なんではないのかしら、と思ってる。</p>

<p>なぜかというと、「それ、正しいの？」ていう価値基準が曖昧な件が最近増えてるからだ。</p>

<p>「正しければなんでもいい」と考えるひとは、たとえば専門家の言うことを信じる。「新聞にこう書いてあったから」正しいと信じ、「テレビでみのもんたが言ってたから」正しいと信じ、「政府が言ってたから」正しいと信じる。正しいので広める。それがもし間違ってたら、「間違ってたじゃないか！」と誰かをなじる。</p>

<p>「ソース原理主義」が陥りがちな罠だ。</p>

<h1>そもそも、それっておもしろいの？</h1>

<p>今回のFacebook小話の拡散については、</p>

<p>「それって、本当に正しいの？」</p>

<p>じゃなくて、</p>

<p>「それって、本当におもしろいの？」</p>

<p>とつっこむべきだったと思うのだ。「おもしろいかどうか」に関して言うと、この話にはつっこみどころが大量にある。</p>

<ul>
<li>逆に教養のない白人のおばさんを揶揄し差別してないか（これは<a href="https://twitter.com/#!/hajimebs/status/164922187348840448">石川初さんの指摘</a>によるもの）</li>
<li>良い話かもしれないけどなんかムズムズする(これは<a href="https://twitter.com/#!/sohsai/status/164919718694748161">大山総裁談</a>)</li>
<li>元ネタのすっきりしたブラックジョークに比べて、実話っぽくするためにものすごくおもしろくない方向に脚色しすぎ。そもそも最後の「人種差別に反対のひとはシェアしよう」っていう一文が胡散臭すぎ！（私談）</li>
</ul>

<p>ね。</p>

<p>重要なのは、「正しいか、正しくないか」っていうのは、「だれかがこう言ってた」「新聞に書いてあった」と最終判断を他者に委ねることになるけど、「おもしろいか、おもしろくないか」は、いろんな考え方をふまえたうえで、自分が責任を持つ判断であるということ。</p>

<p>「俺が正しいと思うから正しい！」というひとはあまりいない（お前は誰だ）。</p>

<p>「おかあさんが」「新聞が」「みのもんたが」言ってたから正しいという。</p>

<p>逆に、「あのひとがおもしろいと言ってたからおもしろい！」というひとはいない（お前は誰だ）。</p>

<p>「俺がおもしろいと思うからおもしろい！」という。</p>

<p>だから「おもしろいと思ったらシェア」というルールにしているかぎり、自動的に自分の「いいね！」やシェアに責任を持てる。そして、自分が責任を持っているかぎり、「それがおもしろいと思うお前ってどうなの&#8230;？」という指摘には自分で答えなきゃいけない。Facebook小話を広げたひとたちは、それが実話かどうかにべつに責任持たなくてもいいけど、「その話、おもしろくないよね&#8230;」という指摘には責任を持って答えてほしい。「おもしろくないけど、実話だから広めた！」て意味わかんないからね。</p>

<p>というわけで、私がツイッターでフォローする「この人のおもしろセンス最高」というひとたちは、だいたいつまんない話を拡散したりしないので、私のTLでこの手のデマがまわってきたことは一度たりともありません（自慢）。</p>

<h1>おもしろ至上主義の原則</h1>

<p>要するに、『自分のアタマで考えよう』ということ、そのときの判断基準を「正しいかどうか」じゃなくて「おもしろいかどうか」にしちゃえ、ということが私の言いたいこと（だってなにが正しいかなんて本当は誰にもわかんないから）。</p>

<p>じゃあ、なにがおもしろいの？　</p>

<p>というのを考えるときに、私はだいたい次の３つの原則をとっています。</p>

<ul>
<li><p>たくさんのひとが同じ意見を言ってるときは、たいていおもしろくない</p>

<p>なんかみんな同じこと言ってるなーと思ったら、とりあえず少数派の側にのる！しかも、少数派と思ってた人たちがだんだん多数派になっちゃったときは、さらにその反対側にまわる！まわりつづける！理由、みんなと同じこと言ってるとつまんないから！（大山総裁の「良い話にムズムズする」嗅覚は本当にさすがだナァと思いますよ）</p></li>
<li><p>ひとと違う見方をすると、たいていおもしろい</p>

<p>たとえば、映画をみたときに「感動」視点でみているかぎり「感動した」「感動しなかった」って話にしかなんない。そこで一挙に視点を変えて、構造分析してみるとか、フェミニズム批評してみるとか、エスカレーターが何回でてきたか数えるとか、絶対ほかのひとがやらないであろう方法で映画をみると、２倍たのしめるうえに仕事がもらえたりする（PR：いま建設MiLさんで、エヴァンゲリオンに何回エスカレーターが出てきたかとか、パトレイバーに出てくる川シーンについて考えたりする連載やってます。『<a href="http://www.k-mil.net/hensyu/susume/top.html">ドボクのすすめ</a>』よろしくね）。</p></li>
<li><p>ぜんぜん共感できないし、ぜんぜん好きじゃないけど、おもしろい</p>

<p>小説読んだり、音楽聴いたりして「泣く」ときってだいたいあやしーなーと思うのは、それって「共感」で泣いてるから。共感で泣くというのはべつにぜんぜんいいことなんだけど、そればっかりを重視してると「共感できない＝つまんない」になっちゃって、異様に狭い世界で生きるはめになる。そういうときは、「絶対に共感しようがない小説」をいっぱい読むといいと思う。私のオススメは、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』。本当にいったいいつの時代の話よ！？（答：19世紀のイギリス　ヨークシャー）と100回くらい叫びたくなる、なんでそこでそうなるの展開目白押しで本当におもしろいっすよ！</p></li>
</ul>

<p>もちろん「そんなんひとつもおもしろくねーよ」というひともいるだろうし、私自身も「いま思い返してみたらあんなものをおもしろいと感じていた自分、ほんとうにお恥ずかしい&#8230;」みたいなことが多々あるわけなので、おもしろセンスは日々磨いていくべき。それを磨いてくれるのが、小説や、映画や、音楽や、「娯楽」といわれているタイプのあらゆる「生活に役に立たないものたち」だと思ってます。</p>

<p>というのを、教えてくれたのが、あらゆる生活に役に立たないものたちの価値を問う、美学藝術学という学問だったりします。（あ、まとまった）</p>

<p>そうだ、いまこそ、たちあがれ文学部！</p>
]]>
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    <title>批評の不在についての補足―アンドレアの着るブルーのセーターが本当に「ただのブルーのセーター」になること</title>
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    <published>2012-02-02T15:00:00Z</published>
    <updated>2012-02-02T16:10:33Z</updated>

    <summary>前々回の記事の補足その2。昨日は批評の定義に関する補足だったが、今日は「批評の不...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/26120000.html">前々回の記事</a>の補足その2。<br />昨日は批評の定義に関する補足だったが、今日は「批評の不在」に関する補足。<br /><br />『プラダを着た悪魔』という映画の中で、一流ファッション誌の編集長であるミランダ・プリーストリーが20世紀の産業構造を簡潔に説明するくだりがある。<br /><br />次号の表紙のモデルの衣装を決めている場面で、ミランダとアシスタントの何人かが2本のベルトのどちらを選ぶかを真剣に検討しているところ、ファッションには完全に無頓着な主人公アンドレアが、くすりと笑う。「その２つは、どちらも同じにみえたので」と。そこでミランダは、主人公のアンドレアが着ているブルーのセーターについてこういうふうにこたえる。<br /><br />ウェブに英語の原文があったので、長いけど全部引用してしまおう。<br /><br />'This... stuff'? <br />Oh. Okay. I see. You think this has nothing to do with you. You go to your closet and you select... I don't know... that lumpy blue sweater, for instance because you're trying to tell the world that you take yourself too seriously to care about what you put on your back. <br /><br />But what you don't know is that that sweater is not just blue, it's not turquoise. It's not lapis. It's actually cerulean. And you're also blithely unaware of the fact that in 2002, Oscar de la Renta did a collection of cerulean gowns. And then I think it was Yves Saint Laurent... wasn't it who showed cerulean military jackets? I think we need a jacket here. And then cerulean quickly showed up in the collections of eight different designers. And then it, uh, filtered down through the department stores and then trickled on down into some tragic Casual Corner where you, no doubt, fished it out of some clearance bin. <br /><br />However, that blue represents millions of dollars and countless jobs and it's sort of comical how you think that you've made a choice that exempts you from the fashion industry when, in fact, you're wearing the sweater that was selected for you by the people in this room from a pile of stuff. <br /><br />
「こんなの」ですって。 <br />&nbsp;なるほど、わかったわ。あなたには関係ないことよね。あなたは家のクローゼットから、そのサエないブルーのセーターを選んだ。「私は着るものなんか気にしない人間」というこを世間に知らせるためにね。<br /><br />でも知らないでしょうけど、その色はただのブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない、セルリアンよ。 あなたはこんなことには無頓着でしょうけど、2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のガウンをコレクションで発表し、すぐにイヴ・サン・ローランがセルリアンのミリタリー・ジャケットを発表した。セルリアンは、たちまち８人のデザイナーのコレクションにも登場。そしてついにはデパートにまでも広がっていき、あの悲惨な「キャジュアル服コーナー」にまで現れた。そこであなたがバーゲンの棚から選んだ。 <br /><br />&nbsp;その「ブルー」は巨大市場と無数の労働の象徴なのよ。 &nbsp;とても滑稽ね。あなたは「ファッションとは無縁」と思って選んだのだろうけど、そもそもあなたが着ているそのセーターは、ここにいる私たちが選んだのよ。山のようにある「こんなの」の中からね<br /><br />（日本語訳は<a href="http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2010-07-24">こちらのサイト</a>から。
<br />　ちなみにこちらのサイトの『プラダを着た悪魔』評もおもしろかったです。）]]>
        <![CDATA[<br />アンドレアが着ているブルーのセーターは、アンドレアにとってはただのブルーのセーターだけど、ファッション産業を牽引する超一流であるミランダにはその「ブルー」（正確にはセルリアン）の背景にこれだけのストーリーがみえている。<br /><br />だからミランダは、
そのセーターについて、それが20世紀の巨大なファッション産業のなかで生み出された商品であるかぎり&nbsp;、　<br />"that lumpy blue sweater"<br />と正しく批評することができる。<br /><br />ここで、アンドレアが着ているのがバーゲンセール品の安物セーターじゃなく、「おばあちゃんが編んでくれたセーター」だったらどうだろうか？<br /><br />そのセーターは、ミランダのいる世界と完全に無縁で、本当に「ただのブルーのセーター」になる。そのセーターについてミランダが語れることは何もない。<br />もちろん、そのブルーのセーターに込められたおばあちゃんの思いや、おばあちゃんに関する物語や、おばあちゃんの編み物の技量についてや、そのブルーのセーターの着心地や、質の良し悪しについてはいくらでも語り尽くすことができる。しかしそれを語るのはミランダではなくファッションにまったく興味も関心もないアンドレアであり、それはファッション批評ではなくて、まさしくアンドレアが目指すところの、市民ジャーナリズムだ。事実を正確にあますところなく伝えること。<br /><br />「批評不在」という言葉で私が言いたかったのはそういうこと。<br /><br /><br /><div>世界の大多数のひとが求めているのは、そういう、「おばあちゃんが編んでくれた着心地のいいブルーのセーター」なのかもしれない。質が良くて、着心地もよくて、思い入れもあって、そこではべつにデザインが10年遅れてようと関係ないし、誰かにとやかく言われることもない、流行色とかデザインとかどうでもよい。ヒッピー文化ってつまりそういうことなんだろうし、インターネットの文化もそうなのかもしんない。<br /><br />
それで？
という話なのだが、指摘を受けたとおり、インターネットにおけるコンテンツのビジネスモデル、どうなのよ、て話は別の観点でもっと考えるべきなので、また今度。
</div>]]>
    </content>
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    <title>私はまだ誰もしたことがないやりかたでこの世界をみてみたい</title>
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    <published>2012-02-01T15:00:00Z</published>
    <updated>2012-02-02T04:44:10Z</updated>

    <summary>前々回の記事に対してもらった反応からいろいろ考えていて、140字でまとめたらすっ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/26120000.html">前々回の記事</a>に対してもらった反応からいろいろ考えていて、<br />140字でまとめたらすっきりしたので、少し文脈を整理しつつこちらにも書いておく。<br /><br />
ソーシャルでの行動は「共感」がベースなので、<br />「いいね！」「俺も俺も」　「これはひどい」「俺も俺も」と広がる。<div>それに対して「批評」という行為は、<br />「まだ誰もしたことがないやりかたでなにかを読み解くこと」だとおもう。</div><div>これが、私が「いいね！」や「これはひどい」がまったく批評ではないと思う根拠だ。
<br /><br /></div><div>優れた批評家は、それが超個人的な感情に基づくものであれ、</div><div>凡人離れした感性によるものであれ、独自のセンスによるものであれ、</div><div>緻密な構造分析の結果であれ、超人的な博識に基づくものであれ、あるいはその全部であれ、</div><div>他のひとには真似できないやり方で、世界を読み解いてくれる。</div><div>「新しくなにかを生み出す」クリエイターと、「独自のやり方でそれを読み解く」評論家がいて、<br />私の世界は毎日少しずつ更新されていく。<br /><br />たとえば、事の真偽に関してや、質や性能の良し悪しに関してであれば、<br />「いいね！」や「これはひどい」による数の評価はある程度参考になる。<br />だけど、「正しい」や、「良い」「悪い」は多数派の正義だとおもう。<br />少数派の正義は「おもしろ」だと私は信じてる。<br /><br />私は、みんなが信じているのとは別のやりかたで、この世界をみてみたい。<br />私は、自分自身が信じてきたのとも別のやりかたで、この世界をみてみたい。</div><div>私は、まだ誰もしたことがないやりかたで、この世界をみてみたい。<br /></div>]]>
        
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    <title>5枚でわかる『たけしのニッポンのミカタ』田村出演シーン</title>
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    <published>2012-01-28T05:47:56Z</published>
    <updated>2012-01-28T06:00:17Z</updated>

    <summary>先週のオンエアでしたが、テレビ東京の『たけしのニッポンのミカタ』の１コーナーに、...</summary>
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        <![CDATA[先週のオンエアでしたが、テレビ東京の『たけしのニッポンのミカタ』の１コーナーに、エスカレーターマニアとして出演いたしました。<br />&nbsp;<br /><img alt="1201281.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/28/img/1201281.jpg" width="500" height="280" class="mt-image-none" /><br /><br />「小さいことはいいことだ」という特集で、日本の狭小住宅と日本人の特性や、小さい居酒屋など「小さい」ことを売りにしたビジネスのお話で大変真面目な番組なのですが、その中の「太一の解体珍書」というコーナーで、小さい世界のマニアのひとりとして出てます。<br />他の出演者は、みちくさ学会でもご一緒している井戸の柏崎さん、たい焼き魚拓の宮嶋さん、バスの押しボタンの石田さん。全員、NHK熱中時間ご出演経験アリでございます。私は熱中時間は静止画でしかでてないんですが。<br /> <div><br /></div><div><br /></div>]]>
        <![CDATA[<br /><br /><img alt="1201282.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/28/img/1201282.jpg" width="500" height="278" class="mt-image-none" /><br /><br />司会はTOKIOの国分太一さん。終始、マニアぶりをおもしろがるというスタンスです。プロのお仕事でした。<br /><br /><img alt="1201283.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/28/img/1201283.jpg" width="500" height="283" class="mt-image-none" /><br /><br />エスカレーターの魅力プレゼンとして、収録ではTOKIOの５人をエスカレーターにたとえたりとか、皆さんにエスカレーター動画をみていただいたりとか、けっこうがんばりましたが相当わかりづらかったっぽくばっさりカット（TOKIOをたとえるくだりは私もどうかと思いましたよ！）。結局別途、有楽町マリオンでロケ。楽しかったです。<br /><br /><br /><div><img alt="1201285.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/28/img/1201285.jpg" width="500" height="278" class="mt-image-none" /></div><div><br />国分さんにエスカレータートランプをみせて、さっぱり理解できないわ〜という反応をいただいたり。<br /><br /><img alt="1201284.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/28/img/1201284.jpg" width="500" height="280" class="mt-image-none" /><br /><br />いちばんいい仕事したのは、石田さん自作のバスの押しボタンプレート（すごすぎる）を勝手に押して、「MCより先に押しちゃだめでしょ！」と怒られたところですね！いや、ここがオンエアされるとは思わなかったよ！<br /><br /><br />東京では放送終わっちゃいましたが、裏日本（金沢）での放送は１回遅れて来週とのことですので（母情報）、裏日本の皆様はよろしければご覧になってみてください。<br />わたしは元気です！</div><div><br /></div>]]>
    </content>
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    <title>インターネットで成功するのは批評不在のコンテンツである</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/26120000.html" />
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    <published>2012-01-26T03:00:00Z</published>
    <updated>2012-02-03T02:06:53Z</updated>

    <summary> 「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」という本を読んで、マーケティング...</summary>
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        <name>38</name>
        
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    <category term="考え中" label="考え中" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tokyo-esca.com/blog/">
        <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4822248526/tamura38-22/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51NSQvY3VjL._SL500_.jpg" width="365" height="500" alt="グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ" title="グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ" /></a>
<div><br /></div><div>「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」という本を読んで、</div><div>マーケティングとは全然べつのことが気になったので書いておく。</div><div><br /></div><div>私の目標は、</div><div>「おもしろいひとがおもしろいというだけで食べていける世の中を作ること」なので、</div><div>グレイトフル・デッドはひとつのモデルケースになるかな、と思って読んだ。</div><div><br /></div><div>結論として、</div><div>グレイトフル・デッドの例は、ビジネスモデルとしてなんの問題もない。</div><div>ただ、コンテンツビジネスのモデルではない。</div><div>「ある一部の」コンテンツビジネスのモデルにすぎない。</div><div><br /></div><div>グレイトフル・デッドは、「批評不在」のコンテンツであり、</div><div>グレイトフル・デッドのビジネスモデルで成功するのは</div><div>「批評不在」のコンテンツのみである。</div><div><br /></div><div>そしてインターネットの時代には、</div><div>「コンテンツビジネスのモデル」という、あるひとつのモデルは成立しない。</div><div>あるひとつの大きな混沌の中で、いろんなコンテンツが、</div><div>同じ値段で同じパッケージで同じ店舗で買えた、</div><div>20世紀とは、希有な時代だったのだ、ということにいきなり気づいた。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>※ちなみにマーケティングに関しては非常に勉強になった。</div><div>　がしかし、この記事ではそのことに一切触れず脱線していくのみなので、</div><div>　そのあたりは、この本をまわしてくれた<a href="http://uramayu.typepad.jp/blog/2011/12/gratefuldead.html">mayumineさんの記事</a>に</div><div>　内容が詳しく解説されているのでご覧あれ。</div><br class="Apple-interchange-newline" /> ]]>
        <![CDATA[<div><br /></div><div><br /></div><div>私が自分のお金でコンテンツを買ったのは1995年からなので</div><div>「20世紀」を経験したのはわずか5年だったが、</div><div>この頃は、J-POPが隆盛し、いろんなバンドコンテストが行われ、</div><div>レコード会社に拾われてバンドはめでたく「メジャーデビュー」し、</div><div>ドラマやCMの「タイアップ曲」として大々的に売り出され、</div><div>CDの販売枚数を基準とするオリコンチャートが機能していた。</div><div>（もはや懐かしい）</div><div><br /></div><div>まとめるとこんな感じ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>■20世紀型</div><div><br /></div><div>A. クリエイターがなにかつくる</div><div>B. 発表する／出版社やレコード会社に送る</div><div>C. 出版社やレコード会社が発掘する</div><div>D. 出版社やレコード会社が「商品」にパッケージング</div><div>E. 出版社やレコード会社がキャンペーンを展開（献本、献盤含む）</div><div>F. 書評誌や音楽誌で批評家が批評する</div><div>G. 学校や職場などクチコミで拡散する</div><div><br /></div><div>ゼロ年代が始まった当初、「これからのメディアはどうなるのか」という議論の中で、</div><div>Amazonレビューや個人ブログでのアマチュア批評が大きく取り沙汰されて、</div><div>書評誌や音楽誌の立場がなくなり、「GがFにとってかわる」と思われていて、</div><div>「批評体力のあるプロの批評家が絶滅する」とかそういうことが問題になっていたけど、</div><div>実際ゼロ年代中にはそういうことは起こらなかった。</div><div><br /></div><div>実際にはGの中には大きな格差があって、</div><div>アマチュアであっても、きちんとした自分なりの批評体系をもって</div><div>本や音楽を独自の視点で批評する「書評ブロガー」や「音楽レビュアー」たちは</div><div>すぐに有名になり、今度は出版社やレコード会社が、その人たちに対して</div><div>献本、献盤するようになったのだ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>■ゼロ年代型</div><div><br /></div><div>A. クリエイターがなにかつくる</div><div><b>B. 自分のブログ、ホームページで発表する</b></div><div><b>（G. ブログやTwitterなどクチコミでやや拡散する）</b></div><div>C. 出版社やレコード会社が発掘する</div><div>D. 出版社やレコード会社が「商品」にパッケージング</div><div>E. 出版社やレコード会社がキャンペーンを展開（献本、献盤含む）</div><div><b>F. 有名ブロガーが批評する</b></div><div><b>G. ブログやTwitterなどクチコミでさらに拡散する</b></div><div><br /></div><div>これは、GがFを淘汰したのではなくて、「Fを行う人と場所が変わった」というだけだ。</div><div>BとGも同様。より広くフラットで自由な形に変わっただけ。</div><div>それは素晴らしいことであり、特に問題になるようなことはないと私は思っている。</div><div>（問題になるのはおもにFで食ってた商業誌のひとだけ）</div><div><br /></div><div>iTunesや電子書籍プラットフォームは、これを覆す新しいビジネスモデルではなく、</div><div>インターネットにおいて、このビジネスモデルを</div><div>（なんとかして）維持するための仕掛けのひとつである。</div><div>特にC～Eの部分は、もはや瀕死というより既に屍累々。</div><div><br /></div><div>C～Eを淘汰しはじめているのが、「フリー」であり「シェア」であり</div><div>「グレイトフル・デッド型」のビジネスモデルだ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>■グレイトフル・デッド型</div><div><br /></div><div>A. クリエイターがなにかつくる</div><div><b>B. フリーで発表する</b></div><div><b>G. シェアで拡散する</b></div><div><b>H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる</b></div><div><br /></div><div>グレイトフル・デッド型のマーケティングの場合、</div><div>ゼロ年代型で存在したC～Eが一気に淘汰される。</div><div><br /></div><div>「商品」にパッケージングする必要がないのだ。</div><div><br /></div><div>それは「フリー」で「シェア」されているから、どんどん拡散する。</div><div>拡散したあとで初めて「商品」が作られて、それが売れるのだ。</div><div>商品とは、コンテンツそれ自体ではなくて、</div><div>ほぼ日でいうところの、ほぼ日腹巻きとか、ほぼ日手帳とかであり、</div><div>グレイトフル・デッドでそれは「ライブでの得難い体験（アルコールとドラッグを含む）」である。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>ゼロ年代の10年がすっかり明らかにしたことは、</div><div>「クリエイターに対価として支払われる金額はコンテンツの質を決定しない」ということ、</div><div>というより、より正確には、</div><div><b>「いままでコンテンツの対価と思って支払っていた金額は、じつはほとんどが、</b></div><div><b>パッケージやキャンペーンなど、それを"商品"として流通させるためのお金だった」</b></div><div>という事実だ。</div><div><br /></div><div>わたしたちが「ほぼ日」を読むために「本」というパッケージを買うことと、</div><div>「ほぼ日」をタダで読んで、楽しかったなとおもって、「ほぼ日手帳」を買うことの間に、</div><div>それほど大きな差はない。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>であるからして、C～Eの淘汰それ自体は、よいことなのだ。</div><div><br /></div><div>困るのは、C～Eの「中間業者」の皆さん（広告代理店含む）たちと、</div><div>その枠組みの中で仕事をしてきた大御所の皆さんだ。</div><div><br /></div><div>彼らは「良いコンテンツの発掘にはプロの目が必要（C）」と抵抗し、</div><div>「紙の本というパッケージだって大切（D）」と抵抗し、</div><div>「消費者の価値変容を起こさないものは広告とは呼ばない（E、これは広告代理店がね）」</div><div>と抵抗するだろうが、既得権益とはそういうものである。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>もうひとつ気づくのは、<b>「このモデルではついに批評（F）が存在しない」</b>ということだ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>図を見直してもらえばわかるが、20世紀型モデルでも、ゼロ年代型モデルでも、</div><div>「批評って、なんか意味あるんだっけ？」と問われると、「特に意味はない」と答えざるを得ない。</div><div>特に「ビジネスモデル」としてこの図を見ると、批評はまったくなんの役割も果たしていない。</div><div><br /></div><div>それではなぜ、20世紀型でも、ゼロ年代型でも場所を変えて存在した批評が、</div><div>「グレイトフル・デッド型では存在しえない」のかというと、</div><div><b>「グレイトフル・デッド型で成功するのは、批評が存在しないコンテンツのみだから」</b></div><div>ということになる。</div><div><br /></div><div>たとえば</div><div><br /></div><div>A. 個人がなにかつくる</div><div>B. フリーで発表する</div><div>G. シェアで拡散する</div><div>H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる</div><div><b>F. 「商品」が批評される</b></div><div><br /></div><div>というモデルは存在しない。</div><div>この「商品」とは「ほぼ日手帳」や「ライブでの得難い体験（ビール飲んだり薬やったり）」を指すので</div><div>「ほぼ日手帳を批評体系に基づいて熱烈に批評する／酷評する」ということは起こり得ない。</div><div><br /></div><div>そして</div><div><br /></div><div>A. 個人がなにかつくる</div><div>B. フリーで発表する</div><div><b>F. 批評される</b></div><div>G. シェアで拡散する</div><div>H. コンテンツとはべつの「商品」が売れる</div><div><br /></div><div>というモデルもやはり、（ありそうにみえるが）存在しない。</div><div><br /></div><div>なぜなら、</div><div><b>「批評が発生するようなコンテンツは、そもそもフリー＆シェアの精神からはずれてしまうから」</b></div><div>ということなのだ。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>私がインターネットにおいて、エスカレーターのサイトを始めた理由もそこにあるので、よくわかる。</div><div><br /></div><div>私のサイトに載っているエスカレーターの写真を</div><div>「写真」や「アート」の文法で批評することには、ほとんど意味がない。</div><div><br /></div><div>以前書いたことの流用になるが、</div><div>ピカソの絵が、美術界に与えた衝撃はすさまじいものがあったが、</div><div>「ピカソの絵が、なぜ、どのようにすごいのか？」を理解するには、基礎体力が必要である。</div><div><br /></div><div>これに対して、私が提示するのは、</div><div>ただ「エスカレーターって、いいよね」という観方であって、</div><div>それを観た人が「そうだよね！いいよね！」と一緒になって盛り上がる。</div><div>フリー＆シェアとはそういうことである。</div><div><br /></div><div>インターネットで成功するのはピカソではなくて私である。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>■考えられる未来１：このモデルが唯一のコンテンツビジネスモデルとなった場合</div><div><br /></div><div>繰り返すが、「批評って、なんか意味あるんだっけ？」と問われると、</div><div>「特に意味はない」と答えざるを得ない。</div><div>特に「ビジネスモデル」として考えると、批評はなんの役割も果たしていない。</div><div><br /></div><div>だが、「コンテンツを売るために批評は不要」だが</div><div><b>「批評のためには、批評が発生するコンテンツが絶対に必要」</b>である。</div><div><br /></div><div>これは批評家が職を失うという問題ではない。</div><div>既に彼らはゼロ年代型モデルにおいて、批評体力のある優れたブロガーに職を奪われている。</div><div>それは、ブログやインターネットが「批評のプラットフォーム」としては</div><div>なんの問題もなかったことを示している。</div><div><br /></div><div>ただ、ブログやインターネットは、「批評が発生するコンテンツ」のための</div><div>ビジネスモデルを未だ生み出していない。</div><div><br /></div><div>このことは、ついに批評に、特に同世代の批評に死をもたらす可能性はある。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>■考えられる未来2：なんらかの小規模なビジネスモデルが複数発生する場合</div><div><br /></div><div>グレイトフル・デッド型のビジネスモデルで売れないものは、たとえば３つある。</div><div><br /></div><div>ひとつは、現代アートや、現代音楽や、純文学や、フリージャズや、</div><div>「その構造自体が批評を必要とするコンテンツ」の類。</div><div>創作があって批評があって批評が体系化されて、</div><div>そしてその体系を打ち崩す創作がうまれる。</div><div>そういうサイクルの中でうみだされてきたものたち。</div><div><br /></div><div>もうひとつは、「完全な駄作」。</div><div>たとえば若いころに爆発的なヒットを生み出した大御所が晩年になって</div><div>レコード会社との契約の中でいたしかたなく生み出した、</div><div>もう本当にてんでダメ、という作品。</div><div><br /></div><div>もうひとつは、「誰にもまったく売れない商品」。</div><div>ある有名アーティストの安定的な収益で潤っているレコード会社が</div><div>ほとんど道楽で出したような商品。</div><div><br /></div><div>「売れないもの」と書いたが、</div><div>この3つは20世紀型モデルでも、べつに売れてたわけじゃない。</div><div>というか、ぜんぜん売れていなかったわけである。</div><div>だがしかし、それはどれだけ売れなくても「商品」として存在し、</div><div>だれからも愛される超ヒット作とだれが買うんだかまったくわかんない作品が</div><div>同じ値段で同じパッケージで同じ店舗で買えたのが、20世紀なのである。</div><div><br /></div><div>グレイトフル・デッド型モデルでは、「愛されないもの」は「商品」にはならない。</div><div>だからといって、そういったコンテンツがいきなり死ぬというわけではないだろう。</div><div>たとえば有料会員制の「サロン」みたいなものが発生して</div><div>そこでとんでもなくヤバい音楽をやってるミュージシャンを支援する、</div><div>みたいなモデルはありえるかもしれない。</div><div><br /></div><div>ただ、いままでのように、それらがいっしょくたに</div><div>「同じ値段で同じパッケージでだれでも手に取れる形で並んでいる」</div><div>20世紀の混沌は、いつのまにかすっかり過去のものになっている。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>と、ここまで書いてやっと白状するが</div><div>音楽の批評体系を（曲がりなりに、一応は、なんとなくは、たぶん）学んだ私にとって、</div><div>グレイトフル・デッドの音楽にはなんの魅力も感じられなかった。</div><div>それはわかりやすく、心地よく、だれからも愛される音楽であり、</div><div>なにかの批評体系にのせて熱烈に称賛する、あるいは酷評する、という価値の一切ない音楽だった。</div><div><br /></div><div>そのことに、なんというか、衝撃を受けて、この記事を書いている。</div><div>私の音楽的価値観を未だにほとんど支配しているテキストを紹介して、終わりにする。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>--</div><div><i>1966年、フランスのジャズマガジン「ジャズ・オット」誌の6月号はシカゴのアルトサックス奏者アンソニー・ブラクストンに対する激烈な批判記事を掲載した。</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>&nbsp;</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>ブラクストンは当時世界中を巻き込んで展開していたフリージャズ・ブームの若きスターのひとりであり、ファンやある種のジャーナリズムは彼を「現代音楽とジャズを結ぶブラック・エロース」であるとか（彼は黒人である）「幾何学的ブルース衝動」であるとか「緻密な建築設計図を自動書記で書き上げる男」（彼はリタイア後の現在、フィラデルフィア大学で数学と建築学の教鞭をとっている）等といって絶賛していたのにも関わらず、反フリージャズの方針をとっていた「ジャズ・オット」誌は保守派最強の理論家ジャン・ミシェル・リブローを起用、罵倒といっていいその記事の酷評の音量は誌面のセンターフォールドをも飾るが如き勢いであり、最終行に近ずくにつれて罵倒は呪いにさえ近ずいて行った。66年6月号は悪魔に魅入られた様であった。</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>&nbsp;</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>「フリージャズ」「現代音楽」「保守派」「理論家」「酷評」こういった輝かしい固有名詞群が時代の遺物として絶滅してしまった事を嘆く快感に酔いしれるまでもなく、リブローの記事の正当性といったものは当時も現在も厳密に理論的な意味に於いて証明されようもない。しかし、リブローは図らずも、今、仮に彼を悪役として物語を認識しようとしている勢力にとってはいわゆる「奇妙なハッピーエンド（アンハッピーエンド）」に成る様な、訪れた瞬間に感情と記憶が夢に変換されてしまう様な魅惑的な転調感を我々に残してしまっている。彼が筆を置く寸前に発した金切り声の一言。当時は罵倒として見事に機能したであろうその一言はナボコフの小説に登場するニンフェットのそれの様に現在の私を魅了して止まない。</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>&nbsp;</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>「あんなものは所詮ナイトクラブのクセナキスだ」</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>&nbsp;</i></div><div><i><br /></i></div><div><i>ナイトクラブのクセナキス。もしその名の通りの音楽がどこかに存在したとしたら、そのサウンドはどんなにクールであろうか？罵倒からこうした宝石が生み出される可能性が報告されている限り、貴方は人と争う事をやめてはいけないだろう。本日の演奏はこの記事が掲載されてからちょうど30周年であることを記念して行われるものである。</i></div><div><br /></div><div><br /></div><div>菊地成孔　「ミスタードーナツのシュトックハウゼン」より抜粋</div><div>　（『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875189/tamura38-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">歌舞伎町のミッドナイト・フットボール</a>』収録）</div><div><br /></div><div>全文を読みたい方は<a href="http://taizooo.tumblr.com/post/10951362">こちら</a>を</div><div>--<br /><br /><br /><br />※追記※<br />補足１：「批評の定義」に関する補足<br />いいね！　や　「これはひどい」タグをつけることは、批評ではない、ということの説明<br /><a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/02000000.html">http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/02000000.html</a>&nbsp;<br /><br />補足２：「批評の不在」に関する補足<br />"批評不在のコンテンツ"とはいったいどういうものか？　ということの説明<br /><a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/03000000.html">http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/02/03000000.html</a>&nbsp;<br /><br /></div>]]>
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    <title>フジファブリックが好きな女子なんて...</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2012/01/23000000.html" />
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    <published>2012-01-22T15:00:00Z</published>
    <updated>2012-01-23T06:06:07Z</updated>

    <summary><![CDATA[「ゲーセンで不思議な子に出会う話」は物語というよりむしろ&gt;&gt;1のセル...]]></summary>
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        <name>38</name>
        
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        <![CDATA[<a href="http://togetter.com/li/244071">「ゲーセンで不思議な子に出会う話」は物語というよりむしろ&gt;&gt;1のセルフカウンセリング</a><div><br /></div><div>うん。いいぞ、もっとやれ。</div><div>がしかし、ひとことだけ！</div><div>&nbsp;
<div><i>フジファブリックwwフジファブリックwwwwwwああ、あの典型的な「根暗大学生が考える女性に受け入れられそうなバンド（そう根暗大学生が思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない）」ねwwwwいやいるさきっとこの世の何処かにはフジファブリックを受け入れるおにゃのこもさwwwww</i></div><div><br /></div><div><br /></div> </div>]]>
        <![CDATA[<div>いやいや、フジファブリックが好きな女子なんて掃いて捨てるほどいる！</div><div>しかも、フジファブリックが好きな女子なんて、だいたいかわいい！</div><div>フジファブリックが好きな女子なんて、だいたいキャスケットかぶってる！</div><div>絶対かぶってる！！！</div><div><br /></div><div>音楽がやりたくて上京してうきうき大学のバンドサークル入ったら</div><div>そこに吐いて捨てるほどいた「Judy and Maryが好きです」みたいなボーカルの女のコが</div><div>卒業するころにはだいたいギターかドラムとつきあっててそいでそいつの趣味で</div><div>「フジファブリックとか好きです」みたいになっていく状況を</div><div>私がひたすら横目に眺めたゼロ年代を経由し、</div><div>森ガール代表宮崎あおい主演で映画化された『ソラニン』（2010年）でもって</div><div>ようやく「90年代ノットデッド派」の末路（文字通りの死）が描かれたのを期に</div><div>90年代やっと終わったかと思ったところへ神聖かまってちゃんが登場、</div><div>あろうことか『モテキ』のドラマ化および映画化（2011年）が再度それらに命を吹き込んで、</div><div>「どれだけ殺しても死なないままついでにちゃっかり生き返ってしまった90年代」</div><div>を謳歌しているサブカル好きリア充どもの心のよりどころ、それが、</div><div><br /></div><div><font style="font-size: 1.5625em; "><b>フジファブリック！</b></font></div><div><br /></div><div>そのものではないですか！</div><div><br /></div><div>いや、本来こういう外野から本筋関係ないところで突っ込みを入れたりだとか</div><div>本当に好きな人が傷つきそうなことはけして書かないように心がけていたのですが、</div><div>それこそ根暗サブカル非モテ女子だった私の大学時代の思い出が</div><div><br /></div><div><font style="font-size: 1.5625em; "><b>フジファブリックが好きな女子だけはけしてゆるさねぇ</b></font></div><div><br /></div><div>と叫びましたので書いておきました。</div><div>怒られたら消す！</div>]]>
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    <title>はてな村への郷土愛について</title>
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    <published>2012-01-19T10:00:00Z</published>
    <updated>2012-01-19T10:03:45Z</updated>

    <summary>いろいろあるとおもうのですが、私の場合はまとめるとこうだ。...</summary>
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        <![CDATA[いろいろあるとおもうのですが、私の場合はまとめるとこうだ。<div><br /></div><div><br /></div>]]>
        <![CDATA[<ul><li>大学時代に深くコミットした音楽カルチャー面で、憧れのひとや友だちがやっているのは、「はてなダイアリー」だった。はてなは私の青春のすべて。</li></ul><div><br /></div><ul><li>いまもほとんどすべてのウェブサービス上でつかうアカウント、"tamura38" を初めてとったのが、はてなid。はてなは私のインターネット上のアイデンティティのすべて。</li></ul><div><br /></div><ul><li>はてなダイアリーでエスカレーター日記を書くようになってからしばらくして、初めて「3users」という赤い文字をみつけた。これはなんだ？と思っていて、またたく間にそれが10とか増えていくのがめちゃくちゃ嬉しかった。文章を「読んでもらえる」「評価してもらえる」喜びを知る。はてなは私のライター人生の原体験。</li></ul><div><br /></div><ul><li>はてなダイアリー時代に、「はてなアンテナ」でつながっていたひとたち。はてなブックマークでコメントしあっていたひとたち。Twitterができても、Facebookができても、つながりの「濃さ」や「なにもいわなくてもわかってる」感、それでいて内輪ウケでもなければ同好会でもなくジャンルが広範囲であるおもしろさが、はてなで最初につながったひととの間にはある。はてなは私の「ソーシャル」のすべて。</li></ul><div><br /></div><div>なんというか私は自分の人生のいいときをはてなで過ごしたので（こう書くといまがよくないみたいですがそんなことはないのですよ！）リアル出身地金沢にはちっとも感じたことのない（こう書くと金沢が嫌いみたいですがそんなことはないのですよ！金沢への愛はもっと複雑！）郷土愛ってこういうことなのかしらと思ったりします。</div>]]>
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    <title>家族間の意見の相違について</title>
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    <published>2012-01-11T11:32:48Z</published>
    <updated>2012-01-11T11:35:47Z</updated>

    <summary>たとえば紅白歌合戦で同じ歌手をみているときに大学で音楽学を専攻した私は「このコー...</summary>
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        <![CDATA[たとえば紅白歌合戦で同じ歌手をみているときに<div><br /></div><div>大学で音楽学を専攻した私は「このコード進行は構造的に言って...」と言い、</div><div>音大で声楽を学んだ母は「発声の仕方がなってないわ」と言い、</div><div>カラオケが好きな父は「新年会用にこの曲おぼえよう♩」と言う。</div><div><br /></div><div>田村家ではそういった意見の相違が頻繁に発生する。</div><div>べつに仲が悪いわけではない。</div>]]>
        
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    <title>2012年の抱負</title>
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    <published>2012-01-07T18:16:32Z</published>
    <updated>2012-01-07T18:17:55Z</updated>

    <summary>高校生の頃、私はなんでもできると思ってた。次々にいろんなことを教えられて、理解し...</summary>
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        <![CDATA[高校生の頃、私はなんでもできると思ってた。<div>次々にいろんなことを教えられて、理解し吸収し、実践する。</div><div>要はメモリとcpuの問題で、私は記憶力はあまりよくないがcpuに自信があったので、テストの問題を解くのは苦ではなかった。</div><div><br /></div><div>大学に入って特に専門課程に進学後、自分が哲学的に物事を考えるにはあまりにいろんなものが欠けてると気がついた。教えてもらえばなんでもできると思ってたから、まず最初は「教えてもらってねぇー！」と憤り、次に「自分は思ってたほどcpu性能よくなかったんだな」と挫折し、さらに「そもそもcpuとかじゃなく自分にはそういう感性が欠けているのだ」と人生を呪ったりした。</div><div><br /></div><div>でまぁそれはすべて本当なんだろうけど、最近になって、あの頃さっぱりわかんなかったあの言葉の意味が「あ、そういうことか！」と腑に落ちる、ということが時々でてきた。学習にはメモリとcpuだけじゃなくて、「それを何度も繰り返す」という動作も重要だ。哲学的で抽象的な議論の中では特にそれを自分自身が繰り返し経験することによって、いきなりわかるようになることもあるのだ。人生っておもしろいよね。</div><div><br /></div><div>というわけで今年もたくさん本を読み、たくさん人に会い、たくさん美味しいものが食べたい。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>年末のできごと</title>
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    <published>2011-12-29T14:08:23Z</published>
    <updated>2012-01-05T06:02:01Z</updated>

    <summary>12月は射手座最強の月ですが、今年もいろんなひとに、たくさん祝っていただいたので...</summary>
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        <![CDATA[12月は射手座最強の月ですが、<div>今年もいろんなひとに、たくさん祝っていただいたので、書き留めておきます。</div><div><br /></div><div><img alt="1229-2.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/1229-2.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /></div><div><br /></div>]]>
        <![CDATA[<ul><li>12月23日は、デイリーポータルZの忘年会。<br />わたしは、何年か前にデイリーポータルZの忘年会の様子をなんかで読んでいて<br />「いいなぁ...私もこれに参加できるようになりたい！」<br />とたしかに思っていた記憶があり、林さんの赤いスイートピーの熱唱を聴きながら、じつに感慨深い気持ちでした。<br />ライターになりたいんじゃなくて忘年会に参加したかったのかわたしは。<br /><br /></li><li>12月24日は、極寒の東京湾を屋根無し船でクルーズという、クリスマス恒例の修行に。<br />これほんとに修行としか言いようがない（寒いし夜だし真っ暗な中を、ときどき轟音をあげてモノレールが通り過ぎて行くのを、おおー！とか言って眺める、という修行）んですが、なぜかしらないけど今年は去年より１艘ふえて２艘、物好きな皆さん総勢15名にて、夜のお台場〜目黒川に繰り出しました。<br /><br /><img alt="1229-3.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/1229-3.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /><br /><br />お台場は、夏に打ち上げ損なった花火をここぞとばかりに使い切る大会が行われていて、わずか10分でしたがじつに盛大でした。ちゃんと屋根のある、リア充船もいくつか出ていたようで、船内からは「リア充××××！」などのかけ声があがります。<br /><br /><img alt="1229-4.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/1229-4.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /><br /><br />つづいて桜の名所の目黒川へ。って、冬に夜来ても感想は「寒い...」てだけなんですが、と思いきや！<br /><br /><img alt="122-5.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/122-5.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /><br /><br />冬の桜...！なにこのまがまがしい感じ！しかもこのへん、周囲が五反田の歓楽街だったりするんですよね。ピンクでいいの、ほんとにいいの！？<br />このへんにくると船上の皆さんはかぶりものなども登場して完全にふっきれておりまして、船をつけて「メリークリスマース！」と上陸、リア充以上に面倒くさい感じを周囲に振りまいておりましたね。<br /><br /><img alt="1229-6.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/1229-6.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /><br /><br />でもって、高架橋脚ファンクラブの会員の皆さんは非常にできるひとが多いのでありまして、こんなちゃんとしたケーキが！用意されていて！会長とはもちろん私のことです！うううサプライズに弱い私はあわや号泣...船上で誕生日を祝われたのは初めてです。って書くとなんか非常に優雅な感じですが、繰り返しますが屋根はありません。ろうそくの火が...暖かかった...！<br /><br /><img alt="1229-7.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/29/1229-7.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /><br /><br />最後は浜崎橋ジャンクションでフィナーレ。こうやってみると、超不審船だよね。でもいざライトで照らせば、全員がトナカイやらなぜか猫耳やらつけているので、海上保安庁も拍子抜けですよ。たのしかった。<br /><br /></li><li>12月25日はひさしぶりのテクノスケープライブでした。<br />テクノスケープライブといえば、テクノスケープガイド、明日発売です。買ってね。<br /><br /></li><li>12月26日と、28日は、会社の忘年会、納会の早押しクイズ大会でフィーバーしました。<br />自信満々で答えた回答がことごとく違っていました。なんだったのでしょうあれは。<br />来年のために誤答をまとめておきます。<br /><br />銅の元素記号は？（３択）→自信満々で「Fe」と回答　→正解は「Cu」<br />男もすなる日記というものを女も...の作品名は？　→「徒然草」　→正解は「土佐日記」<br />『銀河鉄道の夜』の作者は？　→「谷村俊太郎」（誰！？）　→正解は「宮沢賢治」<br /><br />あう。並べてみると公開するの憚られるくらいに恥ずかしいですね！！！東大卒の威厳が音をたててくずれてゆきますよ！！学歴詐称！？<br />ですが、こんなに間違えてるくせに空気を読むことなく貪欲に勝利を求めた結果、見事優勝、フランス製のシャレオツな鍋をいただいて超ハッピーであります。<br />来年はおいしいごはんが炊ける女になろうとおもいます（ごはん炊けるって書いてあったんだよね）。<br /><br /></li><li>いろいろあった１年でした。<br />去年実家に帰ったときには、１Q８４を読み倒し、そして転職する話を両親にして案の定反対されてふてくされたりしていたのですが、わたしはだれの言うことも聞かずに転職をし、結果としておいしいごはんの炊ける鍋をいただきました。そんなことを考えるとこの１年で私は「人生はどうとでもなるし、どういう選択をしてどういう人生になろうと、私はそれを１５０％楽しめるし、後悔することは絶対にない」という、よくわからない自信をつけることができたと思います。<br /><br />来年も、それが幸とよばれるものであれ不幸とよばれるものであれ、たくさんのいろんなことが私を成長させてくれますように。<br /><br /></li></ul><div><i>「あなたの人生がどんなものだったのか、そこにどんな喜びがありどんな悲しみがあったのか、よくは知らない。しかしもしそこに満たされないものがあったとしても、あなたは他人の家の戸口にそれを求めるべきじゃない。たとえそこがあなたにとってもっとも見慣れた場所であり、それがあなたのもっとも得意とする行為であったとしてもだよ」</i></div><div>（村上春樹『１Q８４』のたまたま開いたページより）</div><div><br /></div><div><img alt="1229-1.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/30/1229-1.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" /></div><div><br /></div>]]>
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    <title>おしらせ：「テクノスケープガイド C81 12/30 東 ヒ-29a」で、マンガ描いてます。</title>
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    <published>2011-12-26T09:30:00Z</published>
    <updated>2011-12-26T09:04:02Z</updated>

    <summary>いつもお世話になっている、テクノポップユニット三鷹のおふたりが、コミケ出展される...</summary>
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        <![CDATA[<img alt="tsg_top-500x707.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/26/tsg_top-500x707.jpg" width="500" height="707" class="mt-image-none" /><div><br /></div><div>いつもお世話になっている、テクノポップユニット三鷹のおふたりが、</div><div>コミケ出展されるということで、わたしもはりきって寄稿させてもらってます。<br /><br /><font style="font-size: 1.5625em; ">マンガを。</font><br /> <div><br /></div></div>]]>
        <![CDATA[<a href="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/2011/12/26/uj_001.jpg"><img alt="uj_001.jpg" src="http://www.tokyo-esca.com/blog/archives/assets_c/2011/12/uj_001-thumb-500x724-169.jpg" width="500" height="724" class="mt-image-none" /></a><br /><div>全6ページ。</div><div><br /></div><div>いろいろと内容がアレなので、</div><div><font style="font-size: 1.953125em; ">ウェブでは絶対に公開しません。</font>できません。</div><div><br /></div><div style="text-align: left;">↓↓↓　衝撃の処女作、読めるのはここだけ！！　↓↓↓</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div><div style="text-align: left;"><a href="http://mitaka-sound.com/blog/?p=1559" title="Permalink to テクノスケープガイド C81 12/30 東 ヒ-29a">テクノスケープガイド C81 12/30 東 ヒ-29a</a></div><div><br /></div><div>みんな行ってみてね。</div><div>ちなみに<a href="http://blog.livedoor.jp/sohsai/archives/51876337.html">大山総裁の『ジャンクションＯ』</a>の隣のブースらしいです！</div><div><br /></div><div>（私は裏日本に帰省してカニなど食べているので行けませんが）</div></div>]]>
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